眠 れない。
寒さのせいでは無い。


ならば何故かと問われると困り者だが、 心底ではぼんやりと解っている。だが答えられないのだ。
床にも入らず時春はただ目を開けて、息をしていた。他にする事も無く、空気が 白く震えるのをじっと見つめる。





ふ と、屋敷をまたぐ山の向こうから何かの鳴き声がした。



美しい響きだ。








「鶴」




時 春はびくっと肩を跳ねらせた。
突然だ。

初めは自分の口が思わず零してしまったのかと思った 程に近く、その一言は響いた。
声は襖の向こうから静かに余韻を残している。






妻、 雪乃だ。






こ の女(ひと)は何だって知っているという。






─ 何か話さないと、


「…好きですか」





片 時、雪乃の返事が返って来なかったので時春は声が聞こえた事自体勘違いだったのではと心配になった。
だがしばらくすると再び声がした のでほっと胸を撫で下ろす。



「鶴を、ですか」



「え え」




また間が出来た。きっと呆れられているのだ ろう。






「貴 方は好きですか?」


俺か?


「あ、 ええ…まあまあです。」


そういえば式の後の団子もそうだったか。



「な ぜ俺を先に?」



今度は気まずい間など無く即答される。
「時 春様は私の夫ですから」




どしん、と何かが時春の 胸を押した。今まで以上の違和感と、何とも言えぬ清濁感が込み上げる。思えば雪乃の口から『夫』として自分の名を呼ばれるのは初めてだ。




「… 貴女は?」
相手の顔も見ず話をするというのは、何と気楽な事か。




─ この女(ひと)は何故あのような瞳をしていたのだろう。




「私 は嫌いです」
鶴なんか、と続けた。



鶴と言えば美 しいもの、誰もが好むものとされているのに、雪乃は嫌いだと言う。
それはおかしな答だったはずだが、時春は驚かなかった。
何 故か雪乃 はそう答えるだろうという、確信があった。


けれど理由は知らない、身勝手な勘である。




「そ うですか」



それきり会話が無くなった。



─ どうして己を隠すのだろう




時春は何も言わず、静 かに目を閉じて耳を澄ました。自分の首を前に傾け、細い指と指を絡ませ立てた左足に乗せる。


襖 は隙間も無く閉じたままだ。お互いの姿はまだ見えない。




再 び鶴の啼く声が響いて時春の耳に届いた。
苦しそうな、淋しそうな、美しく哀しい音。






「─ 雪乃さん」



返事は無い。
何も考えず、何も気に止 めず、時春は問うた。




「この鶴の啼くを、いかに 聞かれる」




空気が止まる。
時 春は傾けた頭のまま薄く目を開けて襖を見た。



『 』
息 を吸う音。





  ―白絹と  知らぬ主人のこゝろ啼き
      卑しき朱も いづこぞと癒き





雪 乃の唄うような声を聞いたあとには時春はもう頭を傾けてなどいなかった。


代わりに立ち上 がって襖の前に立った。そこに座り、絹きれの擦れる音を制しもせず、この忌々しい襖戸に手を掛ける。


そ して躊躇も無く一方を左へ滑らせた。





雪 乃はそこに居た。



顔を上げて座り、障子を開け放して、月に照らされた 山を見ている。


そこは異様に寒かった。外からは冷気が入り込み、香の灯りも消えている。
月 が輝く中、時春は雪乃の姿に目を奪われた。




満月 よりも美しく輝いているのは、頬に伝う雪乃の、汚れなき涙だった。



「─ もし、貴女がこのお話を御存じでおられるなら」



動かず言う。
雪 乃が振り向いた。
目線がかち合う。
初めて会ったあの夜の、あの鋭く哀しい瞳が突き刺さる。




「─ 『鶴の恩返し』ですか」
『何故解ったのだろう』とは一瞬も霞めない。


「は い」


「勿論存じて居ります。」


お 互い鋭く合わさった目線を逸す事無く問掛ける。


「貴女は何故、鶴がお嫌いか」



目 を逸さず瞬きもせず、雪乃はただ無表情で片時の間を取った後口を開いた。



「私 の父は昨年死にました」



時春は目を丸くした。


「俺 は貴女のお父上を存じて居ります」


雪乃の目尻が少し上がる。


「あ れは私の叔父でございます。父の兄上です。」





あっ けに取られた時春は、どう答えて良いのか解らなかった。やっとの事で答える。


「…ならば、 あなたは養子になったのですね」


「ええ」


ま あ、父方の兄弟の養子に入るという事自体はそう珍しい事では無いだろう。



─ だが、俺はおかしい。




何故、雪乃の実の父親が死 んで、どういう訳で、いまの義理の父親の元へ連れて来られたのかという事が、知りたくて仕様がない。他人の事等何であろうと気にも止めなかったこの俺が。



「母 は早くに病で亡くなり、それから私は父と二人でひっそりと暮らしていました。
山の奥で暮らしていたものですから、ある日父は森の中で 傷ついた鶴を見つけ、抱えて小屋に戻って来たのです。」



「助けたので すか」


雪乃はこくりと頷いた。
「傷の手当てをした後、父と私はその鶴 を飼う事にしました。そのまま逃がしたとて、その鶴がまた自然に戻れる訳では無いと解っていたからです。一度人間の匂いを付けてしまった以上、その責任を 自然に返す訳にはいきませんでした。
それからは父と私とその鶴で小さな小屋に住まう事になったのです」



雪 乃は思わずか、優しい笑みを浮かべた。
時春はただ黙ってこの柔らかな声に集中する。




「幸 せでした。あの子はとても優しかった。無垢な目をして、幼い私にとっては唯一の友でした。


け れど、私は知らなかったのです。何故あの子が傷つけられていたのかも、何故父が日増しにやつれていっていたのかも」



雪 乃は雰囲気に飲まれない人だ。時春は思った。
その証拠に、先を話すのを辞めて目を伏せた。この場に流されて軽々しく口にしてしまわぬ 様、自ら歯止めを差したのだ。





「話 して」



雪乃は再び顔を上げ、時春の瞳を見た。瞳に動揺の色が浮かぶ。
躊 躇したが、再び口を開いた。



「あの子は、時矢は、叔父に遣わされてい た送り矢だったのです」



雪乃の頬にまた一粒、涙が零れ落ちた。




「─ どういう事ですか」



「叔父は昔から欲が強く、長男でもあったので、父 より遥かに裕福でした。けれど子はいませんでした。
そこで、弟の一人娘である私を欲しがっていたのです。その頃私はまだやっつだった ので解りませんでしたが」


「それから6年が過ぎると、いよいよ父は弱り果ててきました。私 は薬師に看てもらおうと父に言ったのですが、父は頷く代わりにこう言ったのです。


『時矢を 大事にしてやれな』


私はその時、その言葉を真面目に受け取りませんでした。
父 の話をしているのに、何故時矢の話になるのか解らなかったのです。



翌 日、父は朝仕事に出たきり戻って来ませんでした。
代わりに暮れの時、叔父の家来達が小屋に来て私の目の前に紙ぺら一枚を叩き付けたの です。



『東城風成、鶴を手懐け米屋敷を荒らさせた罪により、今日を以 て死刑とす』



そう読み上げられても何の事か解らなかった。そこで初め て時矢がいない事に気付き、家来達の目を見るとやっと全てが解りました。


父と私は六年に 亘って叔父の罠にまんまと乗せられていたのです」



早口でも柔らかくも 無い声で淡々と続ける。


「叔父側であった時矢は米荒らしの罪で捕らえられ、父はその主人で あった罪を問われたのです。そして時矢は殺され、父もまた―…村の人々の目の前でした」



時 春は雪乃を今までよりもじっと見つめた。



「何故。実の弟なのでしょ う?」


「はい。ですが父は昔東城家から縁を切った身。村人達は父が竜風の弟だと知りはせ ず、竜風を非難したりはしませんでした。父を恨んでいた竜風にとってはこの上無く好都合であったのです。

竜風は 賢い時矢をわざと傷つけ、父の仕事道に置く事で父を釣ったのです。父の生き物好きと、優しい心を利用して」


「父 は6年前から度々『今日は用がある』と言って村へ下りて行っていました。そしてまた時矢も、度々晩に小屋へ戻って来ない事がありました。
父 は兄竜風の元へ、時矢は村の米屋敷へと、足を運んで居たのです」



雪乃 は落ち着いてゆっくりと言う。


「父は兄から私を養子にしたいとしつこく迫られていたそうで す。けれど父は頑としてその申し出を断っていました。
なかなか頭を縦に振らない父の態度に竜風は心底腹を立て、その策を打ったので す」



「そしてその策が上手くいってしまったと。げに今貴女はここにお られる」俺の妻として、と時春は言った。



「今の父の策略にございま す。じき、貴方のこの屋敷も父の物となりましょう」



少し目線を外して いた雪乃がまた真っ直ぐに時春を見た。



「私も鶴と同じなのです」



白 く細い指で己の漆黒の長い髪を梳かしながら、続けた。



「けれど私は羽 を持ってはいませんので、飛ぶ事は出来ません。故に喩え傷を負ったとて負わずとて、それは同じ事なのです」




雪 乃は笑った。
あの笑顔だ。




今 ここはそのように笑うところでは無いであろうに。ただ涙も渇き、心も渇き、傷も再び疼きはせぬと、そう歯止めを掛けるための笑み。無理をしている瞳にあら ず、雪乃の瞳は時春を映し出していた。



―目の前で自分の細い手を握る俺 を。



「これは、慰めですか?」


「い え」


「ならば夫婦の契りを、?」


「違 います」



時春は自分が握っている雪乃の手に目線を落とした。




「男 の人の手は、何故このように角張っておられるのでしょう」



雪乃が自分 の手を包む大きく細い甲を指で擦りながら言う。
時春は背筋が震えるのを感じた。



「俺 は、女の方の小ささが解りません。その優雅さと─」
目がぴたりと合う。





「儚 なさが」




お互い、絡めた手を放した。


















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