傘 暮れの時だった。 高い山々は薄灰雲に消えかかり、太陽の光等はただの一筋でさえ零れない。光るのは幾筋にも連 なって途切れる細く強い時雨。 夕刻ではあれども、空がこうも宵に近いのは珍しい。月光の輝かぬ分、もしかすれば夜よりも暗かったかも しれない。足元の頼りになる唯一の光がその線の様な雨だとは、人々は気付きもしないけれども。 こ んな稀にみる夕時、この日こそ、猫が嫌がる日であり、 反面唯一時の休息の時であった。 「ねえか なめ、来た?」 「来た」 「あの人何て言っていた?」 「あ んたから呼びに来いって言っている」 背の小さい方の女が息を吐いて落胆した。胸元を綴る赤 い花刺繍が、安物の着物に一際目立つ。 「行けばいいよ、店は私が見る」 か なめと呼ばれた女が帳面をはらはらとめくる。 「けれど、それは悪いよ。あんた今朝からずっと店番していないかい」 確 かにそれは本当だ。 今日は店の内には入らず、表で番をしていた。朝から晩の今まで。 なので、かなめは「そう」と 目をしばたかせた。「けれど疲れてはいないの」 乾いた筆の毛先を摘んで抜く。いともたやすく抜け落ちた黒い糸毛 を、黄ばんだ帳面の上に放ったままにする。 女が苦笑した。 「申し訳無 いね。必ず明日は私が見るわ」 「必ず」を強調する女の言葉の力無さにかなめはあえて無心に なり、目線を帳面へと更に深く落とした。 店番をする事について何の異義も無いが、こうやって謝られたりするのは御免被りたかった。 ど う返事をしたものか分からない。 気付けば女は消えていた。内に入った のだ。 椅子と帳面から離れ、外を見ようと戸を開ける。重い戸を拳一つ分程ずらせば、外からびうと風が入り込み、指をすり抜けた。冷た い。 そののち一気に開け放つと、白い鎖骨とほてった頬にぱちぱちと雨粒が当たった。雨が輝くようにかなめの体を濡らして、次々に消え ていく。当たる粒は大きく鋭いのに、何故だかかなめはそれを痛いと感じなかった。 店の中には雨粒がびゅんびゅん 入り込んでいるのに、振り返りもせず石の敷居を跨ぐ。帳面は湿気て字がぼやけるだろうし、お客中の草履はびしょ濡れになるだろうけど。 や はり少々心配になり、ちらと店の中を盗見た。自分が開けた戸をするすると閉める。 そして直ぐにまた振り返り、雨の中、大股でゆっくり と足を進めた。 雨 に濡れる。 擦れ違う者、傘を深くさす者、小走りで横を通抜ける者、 も ともと少ない人通りでは誰も振り向かない。 だから良かったのだ。 忙し い人間達では気付けぬ事でも、人間であらぬ者ならばそれも可能。 だか ら、良かった。 人の居なく なった狭い通りに、暗い背景の中雨にも濡れずに白く光る、 「あ なたは猫らしく無い」 * 金 の髪は初めて見た。 女、男、醜人、麗人、今までどんな種類の人間達でも見てきたが、皆頭は 黒だった。ゆるく波かかった毛の女も多く見て来たが、ここまで複雑に、美しく波打ってはいまい。 そ うだ、美しかった。ただただ黒く垂れる漆黒の細い毛束では、腹が立ってしまう程に。 碧 い眼の男がかなめを見た。 それから何の感情も込もらない声で聞く。 「こ こに来て何年?」 かなめはうなじの毛が逆立つのを感じた。こういう所 はまだ人間に成りきれていないのだ。 「怖くない、僕の方があなたより幾分大きいから」 男は 猫をあやすように言った。 確かに男の言い分は間違っていない。男と女 である。背丈は女であるかなめの方が小さいのだ。 だがそんな解り切っている事を言う男か、この男は何か別を言っているのだとかなめは 確信している。彼女には解っていた。 「3年前だ」 「長 いな」 「ここに来て何をする気」 金 色の男は眼を伏せて微笑んだ。綺麗な弧を描く睫毛はやはり金色、圧倒するように光る白い肌は、かなめが一度だけ見た事のある絹、白絹の輝きであった。 「か くまってくれないか」 「私に頼んでいるの」 「そ う、猫さん」 「お前は何」 「知 りたいの」 「知りたい。私が知らないものだろうから」 「異 国の情緒は解らないと」 「解らない」 「そ う、なら連れていこうか」 「かくまえと言ったのに」 「そ うだ…僕は馬鹿だったね」 白い息をふいと吐くと、男は突然姿を消し た。 目の前にいた男が急に消えたにも関わらず、かなめは瞬き一つせず、その跡を見守った。 『跡』 では無いのだ。 「君は雨の中裸足でうろつくよう な猫だから。変わった猫、」 初めてかなめは眼を見開いた。 目 の前に立った四脚の、純白の毛並み、すらと筋の通る鼻、巻いた縦髪の金色、両に光る碧の硝子玉。 そして水晶のよ うにものものを映す尖った角。 一角獣が語りかけ て来た。 《かなめ》 「何故 名を知っている」 《あなたは僕の名を知らないのか》 「知 らない」 《知らない方がいい》 私 も、そう思う。 * 次項→ <<メニューに戻る |